南円堂についてはhpに以下のように説明されている
弘仁4年(813)藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父 内麻呂(うちまろ)追善の為に建てた。
基壇築造の際には地神を鎮めるために、和同開珎や隆平永宝を撒きながら版築したことが発掘調査で明らかにされた。また鎮壇には弘法大師が係わったことが諸書に記される。
不空羂索観音菩薩像を本尊とし法相六祖像、四天王像が安置されている。
興福寺は藤原氏の氏寺であったが、藤原氏の中でも摂関家北家の力が強くなり、北家繁栄の礎となった南円堂は興福寺の中でも特殊な位
置を占めた。その不空羂索観音菩薩像が身にまとう鹿皮は、藤原氏の氏神春日社との関係で特に藤原氏の信仰を集めた。創建以来四度目の建物で、寛保元年(1789)に再建された。江戸時代の建物といっても、その手法はきわめて古様で、再建には北円堂を参考にしたのであろう。日本で最大の八角堂 毎年10月17日に特別開扉。
(南円堂hpよりコピー)
弘仁4年(813)藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父 内麻呂(うちまろ)追善の為に建てた。
基壇築造の際には地神を鎮めるために、和同開珎や隆平永宝を撒きながら版築したことが発掘調査で明らかにされた。また鎮壇には弘法大師が係わったことが諸書に記される。
不空羂索観音菩薩像を本尊とし法相六祖像、四天王像が安置されている。
興福寺は藤原氏の氏寺であったが、藤原氏の中でも摂関家北家の力が強くなり、北家繁栄の礎となった南円堂は興福寺の中でも特殊な位
置を占めた。その不空羂索観音菩薩像が身にまとう鹿皮は、藤原氏の氏神春日社との関係で特に藤原氏の信仰を集めた。創建以来四度目の建物で、寛保元年(1789)に再建された。江戸時代の建物といっても、その手法はきわめて古様で、再建には北円堂を参考にしたのであろう。日本で最大の八角堂 毎年10月17日に特別開扉。
(南円堂hpよりコピー)
猿沢の池の前の階段を登ると左手に南円堂がある
三重塔の屋根と南円堂
南円堂の柵の外側斜面で必死に地面に這っている大木の根
中金堂から見た南円堂
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